蒼紅ブログ

ゲームの話題・情報・感想、民俗学、雑記など

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期待の新作「かぎろひ〜勺景〜」

 Shelfより今年秋発売予定の「かぎろひ〜勺景〜」です。

 この作品に多大なる期待神ゲーの予感を仄かに感じている人は、私を含めよっぽど少ないのではないかと思います。公開されているゲーム情報はまだ少ないので漠然とした感じですが、このOHPから伝わってくる雰囲気といい、佐藤ひろ美さんの歌う主題歌から浮かぶ世界観といい、キャラクターたちの表情から垣間見られる日常風景といい、何もかもに期待せざるを得ない衝動に駆られてしまいます。

 「いろは〜秋の夕日に影ふみを〜」を直ちに連想させるこの作品には、作中のムードに誘われる“雰囲気ゲー的要素”が期待できるのですが、この作品のジャンルはどうやら「学園伝奇ADV」ということらしく、下手をすれば伝奇部分がゲーム全体の雰囲気をぶち壊すという失態をも招く可能性があると思います。非日常/日常のバランスや展開を上手く構成できるかどうかは、シナリオライターの平野寝覚氏の力量に任されていると思います。

 これからもスタッフの方々は製作の方を頑張ってください。

| 期待の新作 | 22:09 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「G線上の魔王」 感想

OPムービー
■■■■■■■■■ 総合評価

B+ 《秀作》
ストーリー
■■■■■■■■ 
感動
■■■■■■■ 
グラフィック
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音楽
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トリックアイディア
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 あかべぇそふとつぅより2008年5月29日に発売された「G線上の魔王」です。

 多くの人びとに衝撃と感動を与えた、業界を代表する屈指の作品「車輪の国、向日葵の少女」を製作したスタッフ、シナリオのるーすぼーい氏と原画の有葉氏が再び世に放った話題作が、今回の「G線上の魔王」でした。とりわけ、るーすぼーい氏は「車輪の国、向日葵の少女」またはそのFD「車輪の国、悠久の少年少女」発売後の大反響による多大なるプレッシャーの中でのシナリオ執筆になったことでしょうが、今作では前作とまたちょっとコンセプトを異にしたような物語で我々プレイヤーを楽しませてくれたように思います。

 個人的にるーすぼーい氏について特に凄いと思う点は、ファンタジー・SF的展開を一切見せないで、さらに非現実的な独自設定を殆ど用いない世界観にも関わらず、ここまで魅力的・白熱的で複雑に入り組んだ物語を構築できることにあると思います。もちろん、物語中において合理性の破綻が一切ないとは言い切れないでしょうが、しかしこの限られた条件下で限られた方法を用いプレイヤーをあっと驚かせるような展開を作れることは本当に凄いことだと思いますし、何より中だるみがなく始終ころころと転がる展開と、さながら気になるまでにテンポを崩すことのなかった“勇者”と“魔王”を巡る物語は何と言っても秀逸だったように感じます。

 物語の結末は、決して尻切れ蜻蛉ではないのですが、わだかまりが残るようなあまりすっきりとしたものではありません。「アレはどうしたの?」とか「結局、○○なの?」といったような、意図を思わせない些細な疑問が引っかかる程度に残ります。エンディングスタッフロールもただ挿入するだけではなく、プレイヤーに安堵と一呼吸置かせる演出効果を含ませているので、とても面白いと思いました。

 また、「車輪の国、向日葵の少女」はメタフィクションを用いた叙述トリックが最大の見せ場でしたが、それと同様のものを今作にも期待してはいけないでしょう。たぶん、コンセプト自体が異なりますからね。私が思うに、この「G線上の魔王」のコンセプトは『ミステリアス(不可解)』ではないかと思うのです。ダークな雰囲気に不可解な“魔王”の存在。その世界観に引き込まれたプレイヤーは自ずと不安を覚え、暗闇に身を震わせ、“魔王”に畏怖する。我々は、「G線上の魔王」をプレイしたその時から、既に“魔王”に付け狙われていたのかもしれません…。

※ここから下はネタバレ注意

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| ゲーム感想(ADV) | 15:49 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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円と呪い

 昨日、私が関わっているプロジェクトのCM撮影があったのですが、そこで少し面白いことがありました。そのCMの1シーンに、5人が一人ずつ手を取り繋いでいき、最終的には人の輪ができるというカットがあるのですが、その撮影をしているときにある一人がその輪の中に入ってしゃがみだしました。そこで、ある人は

「『かごめかごめ』みたい」

 と言い、またある人は

「祀り上げの儀式みたい」

 と口走りました。その光景を見て「かごめかごめ」を連想することは容易いですが、「祀り上げの儀式」と言葉を濁して表現するのは一つ上の発想のような気がいたします。

 「円形」が呪術的な記号であることは既にご存知の方も多いかと思われますが、日常の一場面で円形を作りその中心近くに人一人立たせる(しゃがませる)だけでそこに呪術的イメージを直ちに連想させられるということは、とても興味深いことのように思います。その円の中心に置かれる人物は明らかにスケープゴート的存在であり、誰の目から見てもその人物に一番の注目が浴びせられるのです。

 かごめかごめも謎が多い遊び歌として面白いものですが、一人の人物を皆で見下すように囲んで回りながら意味深な歌を謡う光景は呪術のような不気味な一面をも覗かせています。ここにおける円の中というのは、完全に世界とは隔絶した「異界」としてはたらいているのでしょうね。

| 雑記 | 12:14 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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20,000アクセス達成

 今週、当ブログは20,000アクセスを突破いたしました。ビクビクと怯えながらもブログを始めた当初、ここまでブログが成長するとは全く思っていませんでしたし、すぐに飽きて放置状態になってしまうかという懸念もありましたが、ブログを温かく見守ってくださる皆さんのおかげでここまでやって来られることができました。また、幾度かコメントをいただいた方々には特に感謝しています。その方々の存在なくして現在の当ブログは存在しなかったと言っても過言ではないと思います。

 さて、そもそも、ここ7日間(6月13日〜6月19日)のアクセス数は当ブログにおいて異例の数字を示しており、なかんずく6月14日のアクセス数はブログ開設以来最も多かった日でもありました。その6月14日には約1,800のアクセスがありまして、また6月13日〜6月19日を統計すると約4,000ものアクセスがありました。その殆どは6月13日に書いた「ゲームブランドのちから」の記事へのもので、これは私も本当に予期せぬことで大層驚いたことでした。どういった仕組みなのかは良く分かりませんが、複数のサイト・ブログ様がこの記事にリンクを貼ってくれたらしいです。
 情報の発信者(ブログ管理人)は思い通りの反応を情報の受信者(ブログ閲覧者)から得られないもので、一生懸命書いた長文記事に閲覧者からの食いつきが悪いこともあれば、適当に言葉をつなげて書いたような記事に案外反応が良かったりと、発信者/受信者の記事を捉える差異にたびたび嘆きを覚える人も多いではないかと思います。この「ゲームブランドのちから」という記事は全く後者の方で、Caitsithのホームページが閉鎖されてしまったことを知ってすぐに文字に起こしたものでした。それだけ書いても記事にはならないので、後半は日頃感じている疑問を簡潔に書き加えたのですが、そんな記事にアクセスが集中するということは、とても小恥ずかしい思いが致します。

 まあしかし、ブログ閲覧者からこういった予測不可能なリアクションが返ってくるのも、ブログを開設している人びとが記事を書く楽しみの一つでもあるのでしょうね。

| 雑記 | 19:16 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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堀部秀郎と記憶

 「死」というものは一切の生者に待ち受ける最終的な結末であり、間違いなく私もいずれ死んで生前の数十年間の記憶は一瞬で消滅してしまうでしょう。「一生忘れまい」と思っていたことも、その瞬間あっけなく忘却してしまうのでしょうね…。しかし、死者の記憶はなくなっても、死者を対象とした記憶は生前親しかった者や親族によって引き継がれていきます。それでも一般的に法要は三十三回忌前後で終了し、それ以後は死者個人は「先祖代々の霊」として括られ祖霊化されてしまいます。これはあくまで生者側による抽象的な信仰なので、もちろん三十三回忌を終えたと同時に実際に死者の霊魂が祖霊グループに仲間入りするわけはありませんが、ここで大切なことはやはり「死者への記憶」なのだと思うのです。死者個人が誰か一人にでも記憶され続けることで、その個人は「先祖代々の霊」にはならないのだと思います。つまり、私の考えとして、「先祖代々の霊」の正体は、生者の記憶からは一切消されてしまったが、確かに存在した人物の集合霊なのだと思うのです。

 文化人類学者であり民俗学者であり、はたまた妖怪学者でもある小松和彦氏は、「死者のたましい」について、非常に衝撃的で身も震えるような言葉でその考えを述べています。以下引用。
 『死者のたましい』とは『死者についての記憶』と置き換え可能なものではないか。つまり『死者についての記憶』の限界が『死者のたましい』の限界ではないか。……慰霊とは『死者のたましい』を慰める行為であるが、それは同時に、『死者についての記憶』を風化させないようにするための方法でもある。したがって、『死者についての記憶』がある限り、『死者のたましい』も存続するであろう。しかし、『死者についての記憶』が薄れていけば『死者のたましい』も消滅していく。つまり、『記憶』の限界が、『たましい』の限界でもあるわけである。
 「死者のたましい」という概念自体が生者の憶測により信じられているものですから、ある死者のたましいが忘れられてしまうということは同時にその死者自体が忘れられることであり、つまり死者へ(について)の記憶も一切消滅してしまうのですね。
 ということは、「生きた記憶」をこの世に残すことによって、その死者のたましいは幾分永続できるのではないでしょうか。例えば、スケールが大きくなりますが歴史上の人物なんかはその典型例でしょう。一人物が多くの人びとに何世紀にも渡って記憶されるとは、とても幸せなことだと思います。

 さて、上でこんな内容を書いたのも、今日で堀部秀郎氏が亡くなってからちょうど2年が経ったからでした。ほんの少し前まであった氏のホームページも今では閉鎖され、悲しくも皆の記憶から消されていく段階を淡々と進まれているようです。こんなことを言うと私が昔からの堀部氏の熱心なファンだと思われてしまうでしょうが、誤解の生じないためにも言うと、私が堀部氏を知ったのは亡くなるちょっと前の、遺作となってしまった「フラグメンツ・ブルー」をプレイしてからでした。この作品との出会いが私の堀部氏との出会いでもあったのですが、堀部氏に興味を持ち始めた矢先に突然亡くなってしまわれたので、当時は信じられないという気持ちが何よりも強かったように思います。

 結局、それから「インタールード」をプレイしたのみで、堀部氏の画集や過去に携わった作品には殆ど手をつけていないままなので、古参の熱心なファンの方々から見れば私は「にわかファン」と言われる立場に置かれると思います。それでも、それは堀部氏には私を含めた数多くのにわかファンを惹き寄せる程の魅力があったのだという証拠でもありますし、堀部氏の描く人間味溢れるキャラクターというのはとても印象強くて記憶に残るものであることも示しているのではないかと思います。それなりの実力やキャリアがある人でなければ、ファンは自分より下位のファン層に対して「にわかファン」なんてつけませんからね。ファンの皆さんも堀部氏のファンであることに誇りを持たれているのだと思います。

 堀部秀郎という人間はこの世に多くのイラストや作品を遺しました。これらの作品がある限り、そして熱心な「堀部ファン」がいる限り、堀部秀郎氏の記憶とたましいは皆に共有され続けることでしょう。「心の中に生き続ける」といった表現はあまりに幻想的すぎて個人的にあまり好きではありませんが、「記憶し続ける」という表現は飾り気のない言葉ではあるものの、死者への率直な想いとそのたましいの肯定が表れているような感じがして清々しい感じがいたします。

 今後も、堀部秀郎氏のイラストや作品がより多くの方々に末永く愛され続けること、そしていつまでも皆に記憶され続けることを願っています。

| ゲーム雑記 | 09:54 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ゲームブランドのちから

 先日、とうとうゲームブランド「Caitsith」のホームページが閉鎖されてしまいました。

 思えば、去年(2007年)の7月20日にブランド処女作「いろは〜秋の夕日に影ふみを〜」を控えめながらに世に送り出し、のちに同作のサウンドトラックを発売し、今年の2月頃にはもうブランド消滅の噂が既にユーザー内で囁かれていました。

 結果的に、ブランドの最初で最後の唯一の作品となってしまった「いろは〜秋の夕日に影ふみを〜」ですが、この作品は本当に個性的でノスタルジックな儚さが全面に押し出された、とても魅力溢れる作品だったように思われます。またOP曲の染み入るような曲調も世界観と溶け合っていて、タイトルが「憧憬」であることにも思わず首を頷けてしまいます。

 また、この作品はスタッフ全員が外注だったらしく、言うなれば外注集団の不安と期待にまみれた試作的な含みを持った作品だったというところでしょうか。原画担当の秋乃武彦氏とあぶりだしざくろ氏はそれぞれ現在フリーランスと同人サークルという立場から活躍され、シナリオライターの4人のうち、てつじん氏は若手気鋭のライターとして一部で熱く注目されておられるようです。

 気になっていたブランドがこのようにして一つなくなってしまったわけですが、また、主要同スタッフが再度集まって製作した作品が世に出される時が来ることを信じて、楽しみに待っていたいと思います……と言いたいところですが、さすがにブランド一つがこう簡単に生まれ消えゆく現状はさすがにどうかと思います。これは「Caitsith」に限らずどのブランドにも言えることなのですが、最近はゲームブランドが自らの集団をブランドであるということを認識しなさすぎだと思うのです。

 我々ユーザーにとって、ブランドというものは一つの記号でもあるでしょう。「このブランドは〜」、「そのブランドは〜」、「あのブランドは〜」と言ったふうに、「ブランド」というものはその内容(作品)を包括して象徴する重要な記号なのです。「いろは〜秋の夕日に影ふみを〜」という作品は「Caitsith」というブランドに色を染めて象徴され、また「カルタグラ」「ピアニッシモ」「殻ノ少女」といった作品群は「InnocentGrey」というブランドに統一して色を染め象徴されるのです。
 「英才狂育」「カルタグラ」「ピアニッシモ」「殻ノ少女」といったように、杉菜水姫氏が関わった作品名を並べてみても、ブランドの違う「英才狂育」だけがいかに場違いであるかがすぐに目に付いて分かるでしょう。この4作を事前に知っていた方は、太字の部分を読んでいて、「英才狂育」と「カルタグラ」の間に一線を画した方も多かったのではないでしょうか。ブランドの記号としての意味の大きさは、そういったところで見ることができるのです。

 つまり、ユーザーにとって作品を見つけるときや選ぶときなどに重要な判断基準となり得る、更には商品自体を象徴する「ブランド」は、安易に生み出したり解散したりするものではないと思うのです。スタッフが一緒でもそれを象徴するブランドが異なれば、それは根幹の異を同時に表していることになるでしょう。ブランドの乱立(最近際立って見えるのは、無駄な姉妹ブランドの設立)は、ただユーザーを混乱させ、更に固定ファンを掴むことも難しくしているのではないかと思います。
 「ブランドイメージに合わない作品の企画があがっているので、新ブランドを設立しよう」とか言う下らない理由でブランド設立をしている現状がもしあるのなら、最初からそんな企画など通さないで頭を冷やしてから考え直す必要があるでしょう。そんなことでは、自分で自分の首を絞めているだけなのだと思うのです。

| ゲーム雑記 | 19:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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上には上がいるんです

 「上には上がいる(ある)」という言葉がありますが、この言葉の意味を調べてみると、『最高にすぐれていると思っても、さらにすぐれたものがある。うぬぼれや欲望を戒める言葉』と書いてあります。つまり、自分にしろ他人にしろ、誰よりも最も優れていると思っていることがあっても、それよりも更に優れている人はいるものだと諭しているのでしょう。

 例えば、自分は誰よりも歌を唄うことが上手いと思い切っている人がいるとしましょう。その人は、自分の体験と想像に任せてそのようなことを言っているのだということは大体想像付きますね。今まで聴いたことのある誰の歌声よりも自分の歌声は優れていて、そして他人との比較から想像しうる歌の上手さの限界に立つ者は自分しかいないのだと、まさに妄信的になってしまっているのです。そういう人に対しては、「上には上がいるんだよ」と優しく話しかけてあげればよいのです。

 さて、「上には上がいる(ある)」という言葉は、上でも述べたように、うぬぼれや欲望を戒める言葉として使用されるのが殆どかと思われます。しかし、よく考えてみると、この言葉にはもう一つ重要な意味が秘められているのではないかと思えるのです。この言葉は、戒めの意味としては直接的な表現を取っていますが、もう一方の意味では婉曲的な表現を取っていると考えられます。しかし、その少々の違いにより、この言葉が持つ意味は全く異なってしまうのです。
 その「上には上がいる(ある)」という言葉のもう一つの意味をここに説明してみますと、簡単なことなのですが、つまりは究極のかたちをぼかす意図があるのだと思うのです。先ほどの歌の例で言うと、自分よりも歌を唄うのが上手い人がいたとしても、「上には上がいる」のですから、その人よりも歌が上手い人がきっといるはずです。そして、その人よりもまた歌が上手い人がいるわけですし、更にその人よりも歌が上手い人がいることになります。つまり、ここでは「より優れた者」の無限発生が起こっているわけですね。この解釈では、抽象的ながらも無限に優者が存在することになるので、絶対的・究極的な優者は存在しないことになるのです。

 つまり、「上には上がいる(ある)」と言い続けることで、絶対的優者の存在を打ち消し、そこに自分を優者へと導くあらゆる可能性や過程、結果などを想像させることが可能となるのではないでしょうか。「上には上がいる(ある)」と語ることは、自分あるいは他者を未熟であると認識させる意図があると同時に、その上に登り詰めていく可能性に希望を見出す意味もあるのではないかと思うのです。
 そう考えると、他人に「上には上がいる」と口を出すことも、単なる自惚れへの戒めとしての言葉ではなく、無限に伸びる高みへと意欲を注がせる格好の言葉にもなるのではないでしょうか。

| 雑記 | 00:56 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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「11eyes -罪と罰と贖いの少女-」 感想

OPムービー
■■■■■■■■ 総合評価

B 《佳作》
ストーリー
■■■■■■■ 
感動
■■ 
グラフィック
■■■■■■■ 
音楽
■■■■■■■ 
ビジュアル演出
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 Lassより2008年4月25日に発売された「11eyes -罪と罰と贖いの少女-」です。

 まず真っ先に言えることは、「OPムービーがネタバレしすぎ」ということでしょうか。OPムービーに散在しているイベントCGのせいで、物語中のイベントシーンの展開が分かってしまうところが数箇所ありました。物語の中核的なネタバレではないのですが、これからプレイされる方は十分にご注意を。

 物語においては、当初思っていた程度を超えて終盤に近づくほどに壮大になっていきます。終盤はもはや伝奇というよりはSFですからね。物語の真実が一つ一つ明かされる度に「もうなんでもアリなんじゃないか?」と思える感じにもなってきて説得力に欠けてきますし、あまりにも上手く行き過ぎている展開に呆れを感じる部分もありました。しかし、幾重にも張られた伏線が次々と消化されていく終盤は、誰もが引き込まれるほどのものだったと思います。

 逆に少し残念だと思ったのが、ネタに走りすぎている部分とえちシーンが異様に長いことです。ネタに関しては然して面白くもないし、分かる分からないは人にもよりますが通じないネタを全力でされると本当に冷めますよね。苛立ちさえ覚えます。えちシーンに関しても、疑問を抱くほどに一回々々が長いです。
 そして最も残念だったのが挿入曲の使いどころです。あのシーンに「忘却の剣」の挿入は誰が聴いても間違っているでしょうし、完全に浮いてしまっていましたね。そもそも、あのシーンは上でも言ったようにOPムービーにより展開が読めてしまっていたので、なんだかいまいち盛り上がりに欠け、感情移入の余地がなかったように思います。私の気持ちとしては、最後の○ー○○o○戦にED曲である「穢れ亡き夢」を挿入して、EDに「忘却の剣」を持ってくれば言うことなしだったかなぁと思ったりもします。

 さて、ご存知の方もいるかと思われますが、当ブログでは過去に登場人物の「菊理」という名前を材料にしてちょっとした考察を試みたことがありました(記事はこちら)。しかし、日本書紀に登場する菊理媛のお話しは「11eyes」本編の序盤(クロスビジョン「美鈴の回想」)で橘菊理と対応付けてかくもあっさりと語られてしまい、考察するまでのことではなかったことが分かりました。以下、クロスビジョン「美鈴の回想」の該当文章。
菊理───
日本書紀の一書にその名を残す女神の名か。

国産みで日本を作り出した神、伊邪那美と伊邪那岐は有名だ。
伊邪那美は炎の神である火之迦具土神を産む際に、火傷を負って死んでしまうのだが、伊邪那岐は愛しさのあまり、彼女のいる黄泉の国へと向かったと伝えられる。

黄泉の国で醜く腐り果てた伊邪那美の姿を見て逃げ帰る伊邪那岐。
その途上、黄泉比良坂で伊邪那岐に何かを語りかけた女の名が、菊理媛神だ。
伊邪那岐は菊理媛神を褒め、その後に黄泉から帰還したとある。

何を語ったのか、この女神がどこからやってきたのか、それらは何処にも書かれていない。
現世と常世の境界で、何かを語る女神の名。

言葉を話せないこの女子の名が菊理だということに、何か皮肉めいたものを感じずにはいられなかったが、神秘を帯びたその名は、これ以上なく似つかわしいと私には思えた。
 ここで菊理媛が伊邪那岐に対して語ったことは、折口信夫の説を借りれば、続く場面が伊邪那岐の阿波岐原での禊であることから、蘇り(黄泉帰り)のための禊を勧めたという説が最も有力であると思われますが、そんなことより私がここで言いたいのは、ここに菊理の正体がありありと仄めかされていたということです。「何を語ったのか、この女神がどこからやってきたのか、それらは何処にも書かれていない。現世と常世の境界で、何かを語る女神の名」。この文に橘菊理の正体のヒントが隠されていたことに気付いた今、なんとも悔しい感じがいたします。

※ここから下はネタバレ注意

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| ゲーム感想(ADV) | 20:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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原作主義と二次創作

 東浩紀氏が、著書「ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2」の中で、非常に興味深くて面白い問題提起をされています。以下転載。

 日本のマンガやアニメの消費者の多くは、このような(キャラクターだけが物語から引き抜かれて二次創作の素材となる)キャラクターの自律化にあまりに親しんでいるので、いまさらそれに驚くことはない。しかし、これは考えてみると奇妙な事態である。キャラクターは現実には存在しない。それが存在するのは、特定の物語のなかだけである。にもかかわらず、人々はなぜ、物語を離れたキャラクターを受け入れてしまうのか。
 たぶん、私が思うに、二次創作に嫌悪を抱く人々(原作至上主義者または原作原理主義者)はこれが受け入れられないのではないかと思うのです。つまり、特定の物語(世界)にのみ存在するはずのキャラクターが、その物語(世界)を離れて他の物語(世界)に存在しているありえない事態が受け入れられないのではないかと。その矛盾を目の前にすることによって、二次創作という存在自体に冷淡的な態度を取ってしまうのです。

 ちなみに、私も原作至上主義者であると言えると思われます。二次創作が悪いと言っているわけではないし、二次創作の中にも素晴らしい作品はあるのだと思いますが、ただそこに一切興味が向かないだけです。しかし、こうやって原作主義であることを公言した場合、多くは「極端な右翼的考えだ」とか「じゃ、見なければいい」などと一蹴されてしまって終わりです。こちら側は反論できないし、あちら側もそれしか言う言葉がない。
 しかし、原作至上主義者は原作以外は受け付け難いのですから、原作(オリジナル)に置かれている「重み」というものが二次創作肯定派のそれと比べて全く違うのだということは安易に理解できることでしょう。原作至上主義者にとって、原作はいわば「原初の姿」であり「恒久の存在」でもあるのです。そういう固定観念が植え付けられてしまっているので、どうしても二次創作を避けがちになってしまい、程度が甚だしいと二次創作の存在自体が信じられなくなってしまうのではないでしょうか。

 二次創作と一言に言っても、同人ゲームや同人誌、SSやイラストなどたくさんあるでしょう。原作が分散されるメディアミックスにおいても、熱心なファンの方々であればある一種(例えば最も早く登場したもの)のみを原作とみなして、そのほかのものは全て二次創作に分類するといった場合もあるかと思われます。
 
 最初からパロディと割り切って製作された二次創作物はまだ分からなくもないですが、性質が悪いのは二次創作物製作者(主にSS執筆者)がそれが原作で語られ得なかった部分を忠実に描写してると信じきっているもので、そういう二次創作物は正直読むに相応しないものだと思っています。原作者でもない一プレイヤーが原作の物語に介入しようとするなんて、あまりに無謀で愚劣な行為だと思います。すると、そろそろ「じゃあ考察することも無謀で愚劣な行為で、読むに値しないものなの?」と意見が出てきそうですが、考察は二次創作とは類を逸するものでしょう。「考察」と称する時点で、それはあくまで自分の考えに過ぎないということを表明していますからね。

 しかしながら、東氏の言うような特定の物語にのみ存在するキャラクターを他の物語に登場させてしまうといったタイプの二次創作物は、オタク文化の楽しみの幅やオタク文化の振興を飛躍的に向上させた発明と言っても過言ではないでしょうし、そう言ったパロディとしての表現の場は、以後も在り続けることが求められるでしょうね。

| ゲーム雑記 | 00:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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残念なこと

 先日、初級システムアドミニストレータ試験(以下「初級シスアド」)が来年度より事実上廃止されてしまうことを耳にしました。なんでも、初級シスアドに変わって「ITパスポート試験」という初級シスアドより若干レベルの低い試験が新たに開設されるだとか…。

 私は初級シスアドを高校在学中に取得しましたが、今回の件をもって、以後この資格が履歴書上であまり意味を成さなくなってしまったも同然なのでしょうかね。まぁ、私が初級シスアドを取得したのは大学受験のためだったので、あまり気にするようなことではありませんが。
 今思うと、初級シスアド以外の資格では危険物取扱者乙種全類と毒物劇物取扱責任者などの資格も所有していますが、このどちらも今後の人生で役に立つような資格とは思えませんし、なんか資格って一体なんなのでしょう?って感じがいたします…。資格は確かに裏切りませんが、活用する場のない資格は持ってても何の役にも立たないですし。
 そんなこと言っておきながら、現在私は学芸員過程を履修して学芸員資格取得に向かって頑張っています。そのおかげで、今学期は月曜日から金曜日まで1限が入っています…。

 そういえば、うちの大学は来年度の大規模な学部編成により、私の所属学科は今年度で募集が終了してしまいました。来年度からは学科名称が変更され、専門内容も著しく変わってしまいます。今日までの学科内の各コースは、他学科の類似コースと統合され新しい学科として再スタートをするらしいです。
 そもそも、私の所属学科は学科スタイルが確立せずに毎年のようにコース編成が変更され、誰が見ても分かる程に低迷し続けていたように思います。まさか学科が分解され、原形を留めない形で再構築されるとは思ってもいなかったので、なんだかとても心虚しい感じがいたします。
 自分の母校が取り壊されてなくなってしまうだとか、出身の男子校/女子校が共学校となって全く雰囲気が変わってしまうだとか、そういうことに違和感や反感を覚える人たちの感情がほんの少し分かったような気がしました。

| 雑記 | 19:15 | comments:0 | trackbacks:1 | TOP↑

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